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鏡の宿 義経元服ものがたり

記事作成日:2018年8月16日

源義経元服の地 東山道で栄えた「鏡宿」(かがみのしゅく)

鏡の宿義経元服ものがたり源義経(みなもとのよしつね)元服の地、いにしえの馨りを感じさせてくれる滋賀県竜王町「鏡の里」にようこそおこしくださいました。
鏡の里は、旧義経街道といわれた「東山道」(とうさんどう)八十六の駅(うまや)のひとつ「鏡の宿」に位置し、古来より多くの旅人たちの休、泊の宿場でありました。
平安後期、平治の乱で源氏が敗れ、平氏が台頭、世はまさに平家一門の栄華を極めた時代でございました。
しかし、密かに平家の滅亡を夢み、京の鞍馬でただひたすら剣術の稽古に励む少年がおりました。
その名は遮那王、幼名を牛若丸と申します。
機熟し、奥州下向の途中ここ「鏡の宿」にて烏帽子を着け、ただひとりで元服したと言われております。
今もこの地には「元服池」や、元服の時に使った盥(たらい)の底、烏帽子を掛けたとされる「烏帽子掛松」などが残っております。
これから皆様に、義経の元服にまつわる物語と、鏡の里周辺の見どころや竜王の名所、またこの地に建てられた道の駅「竜王かがみの里」のご紹介をさせていただきとうございます。
どうぞごゆっくりとご覧くださいませ。

さて、義経はどうしてこの地で元服をしたのでございましょうか?

義経元服のいわれ

それではこれより源義経のお話をいたしましょう。
義経は、幼名を牛若丸と言い、源氏の総領である源義朝の九男として生まれました。母は、義朝の愛妾で九条院の雑仕であった常盤御前(ときわごぜん)でございます。
父義朝が平治の乱(1159年12月)で平清盛に敗れた際、母常磐は、今若、乙若、牛若の三人の子を連れ吉野に逃れました。ところが、清盛に母親を質に取られてしまい、母親と子供の命乞いのため清盛の妾の一人となるのでございます。
  その後、常盤は清盛との間に女の子をもうけた後、さらに一条の大蔵卿 藤原長成に嫁ぎ男子を産んでおります。
牛若丸は京の鞍馬寺に預けられますが、継父の大蔵卿藤原長成が義経の鞍馬での扶持を負担いたします。
母常磐と継父長成、鞍馬の阿闍梨(あじゃり)も牛若に僧になることをすすめますが自分が源氏の嫡流と知り、兵法書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を読み剣術の修行に励むのでございました。

承安(じょうあん)4年3月3日(1174)の暁のこと、京の鞍馬寺で「遮那王」(しゃなおう)と名乗っておりました牛若は、金売り商人吉次(きちじ)と下総の深栖の三郎光重が子、陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同伴して奥州の藤原秀衡の元へ出発いたしました。
なぜ奥州であったかと申しますと、継父 藤原長成の従兄弟の藤原基成は後白河法皇の重臣で、奥州藤原秀衡の妻に自分の娘を嫁がせておりました。
この縁で義経は奥州藤原氏と関係を持ったのではないかと考えられております。

「平治物語」(鎌倉初期の作)では、義経は吉次に「この身を、いかようにせんとも奥州のゆゆしき人(藤原秀衡)のもとに、連れ行かんことを望む」と頼み込んだとございます。

一方「義経記」(室町初期の作)によると、吉次に、遮那王がひそかにわが身分を明かしたところ、吉次から「御曹司が今のままでは、まこと危うし。奥州に下向なさるべし」と熱心に薦められ、鞍馬寺から下ったとございます。

義経記は、平治物語より100年ほど後に創作されたものですから、やはり史実に則っているのは平治物語の方かもしれません。

その夜、近江の「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥傳」(さわやでん)の屋敷に泊まります。
長者は駅長(うまやのおさ)とも呼ばれ、弥傳屋敷は宿名を「白木屋」(しらきや)と称しました。

平治物語に「生年十六と申す承安四年三月三日の暁、鞍馬を出でて、東路遙に思い立つ、心の程こそ悲しけれ。その夜鏡の宿に着き、夜更けて後、手づから髪(もとどり)取り上げて、懐(ふところ)より烏帽子取り出し、ひたと打著(うちき)て打出で給えば、陵助(みささぎのすけ)、早や御元服候ひけるや。御名はいかにと問い奉れば、烏帽子親も無ければ、手づから源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)とこそ名告(なの)り侍(はべ)れと答えて」とございます。

では、なぜ、ここ鏡の宿で元服をしたのか?と申しますと・・・

鞍馬でただ一途に平家滅亡を心に誓って剣術の稽古に励んでおりました牛若丸は、金売り吉次より奥州の藤原秀衡が会いたがっているという事を聞き機運到来と喜び勇んで鞍馬を後にいたしましたが、鏡の宿に入ってまもなく表で早飛脚の声をよくよく聞けば鞍馬よりの追手か平家の侍たちか、稚児姿(寺院で召し使われた少年の姿)の牛若を探しているではございませんか。

これは我等のことに違いない。このままの姿では取り押さえられてしまいます。
急ぎ髪を切り烏帽子を着けて東男(あずまおとこ)に身を窶(やつ)さねばと元服することを決心するのでございました。

そこで白木屋の近くで烏帽子を折る烏帽子屋五郎大夫(えぼしやごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子を注文いたします。

左折(ひだりおり)とは烏帽子の頂を左方に折り返して作ることで、源氏は左折を用い、平家は右折のものを用いておりました。
しかし今は平家の全盛期で、源氏の左折の烏帽子は御法度で五郎大夫もためらいますが牛若のたっての願いと、幼い人が用いるものなれば平家よりのお咎めもあるまいと引き受けるのでございます。

烏帽子の代金に牛若は自分の刀を烏帽子屋に与え白木屋に戻ります。

烏帽子屋五郎大夫は見事な刀を賜ったと喜びますが、その妻は刀を見て涙を流すのでございました。
その刀は古年刀(こねんとう)で源氏重代の刀剣でございました。

実は五郎大夫の妻は、野間の内海(のまのうつみ)にて果てた義朝の家臣鎌田兵衛正清(かまたひょうえまさきよ)の妹 あこやの前でございました(母は義朝の乳母)。
平治の乱に敗れた義経の父 義朝は鎌田正清と共に、鎌田正清の娘の舅父子の裏切りで殺害されております。

夫が受け取った刀は、常盤御前が腹より三番目に出生した牛若(義朝の九男)の護り刀(まもりがたな)として左馬頭(さまのかみ《義朝》)が授けたものでございました。(武家にて男子出生すれば必ず守刀として刀を授ける習慣がありました)その使いを自分がしたのですから確かに見覚えがございました。

「源家繁栄の世にてあらば、牛若君が身をやつして流浪することもなきものを、何とおいたわしいことでしょうか。」と夫に打ち明けるのでございました。

その事を聞いた烏帽子折は驚嘆落涙し刀を妻に渡し、妻は喜び早速牛若の宿を訪ね、「この刀を御受納ありて」と、護り刀を返し主従の名乗りを挙げるのでございました。

牛若も、なんと不思議な縁かと喜びました。

あこやの前が帰った後、牛若は、鏡池の石清水を用いて前髪を落としました。

しかし烏帽子親も無く(通常は二人の烏帽子親が必要)考えたところ源氏の祖先は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、新羅明神(しらぎみょうじん)の前で元服をしたと聞く。
義経の四代前の八幡太郎義家は、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の神前で元服し、その弟の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)は、新羅大明神の神前で元服式をあげたと言われます。

ならば、牛若もそれにならい鞍馬の毘沙門天と、氏神の八幡神を烏帽子親にしようと思い、太刀を毘沙門天、脇差を八幡神に見立て、自ら元服式を行ったのでございます。

その時牛若丸16歳、鳥帽子名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)とし、天日槍(あめのひぼこ)新羅大明神を祀る鏡神社へ参拝し源氏の再興と武運長久を祈願したと伝えられております。

いかがでございましたでしょうか。これで「鏡の宿」での義経の元服のいわれがお解かりいただけましたでしょうか。まだまだ魅力いっぱいの鏡の里を皆様にお見せしとうございます。

義経が元服した「鏡の宿」と「平家終焉の地」は滋賀県のほぼ同じところにあるのでございます。それはどうしてでしょうか?

その後、次々と武勇を発揮していく義経は、清盛の子である、平宗盛(たいらのむねもり)父子を捕虜として鎌倉に向かいます。
しかし、兄の頼朝は勝手に官位をもらった者は、鎌倉に入ってはならないと命令を出し、義経は仕方なく腰越(こしごえ)から京に引き返します。

その帰路、「鏡の宿」を通り過ぎた篠原(しのはら)地先において、平宗盛父子を断罪したのでございました。
その地には宗盛の首を洗った「首洗いの池」又の名を「かわず鳴かずの池」があり、胴だけ残されたので「宗盛塚」も建てられています。ここが平家終焉の地でございます。

義経は、元服後も何度か「鏡の宿」に立ち寄っておりますが、その日は義経自ら元服した「鏡の宿」を血で穢すのを避けてわざと通り過ぎたと伝えられております。

義経ゆかりの地

謡曲「烏帽子折」(えぼしおり)でも、鏡の宿場での元服が表されておりますが、今もこの地には、元服の時に使った盥(たらい)の底と、水を汲み上げた池(元服池)、烏帽子を掛けたとされる松(鏡神社境内にある松)が残っております。

 

鏡の里名所探訪MAP→

 

謡曲「烏帽子折」(えぼしおり)

皆様は「烏帽子折」と言う謡曲をご存知でございましょうか?能で謡う謡(うたい)のことでございます。
「烏帽子折」では、牛若丸は近江の「鏡の宿」で元服して、美濃「赤坂の宿」で強盗の熊坂長範(くまさかちょうはん)を討ち取ったとなっております。ここでは鏡の宿のくだりのみをご紹介させていただきましょう。

謡曲「烏帽子折」を見る→

判官贔屓(ほうがんびいき)

世に判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉がございます。
判官(ほうがん)とは、義経が後白河法皇から検非違使尉(けびいしのじょう)という裁判官と警察官を兼ねた様な官位を賜ったということから義経のことを指す言葉になりました。
義経は平氏との戦で多くの手柄をたてていましたが、この勝手に官位をもらったという事が兄の頼朝から疎まれ、追われる原因のひとつとなります。

最期には平泉にあった衣川の館で自害いたしますが、その後、義経は悲劇の英雄として人々の同情を集め多くの伝説や物語に画かれました。
義経は実は生きて北海道から蒙古に渡り成吉思汗(ジンギス・かん)となったという説もございます。

全国の義経にまつわる地域と人物をご紹介いたしましょう。

義経年表と全国の義経ゆかりの物語や伝説を見る→
 

牛若丸のうた

皆様は「牛若丸のうた」というのがあるのをごぞんじでございましょうか?
京の鞍馬では毎年義経祭に奉唱されているそうでございます。
この中にも「鏡の宿の元服」が表されております。

牛若丸のうたを見る→ 
 

全国で初めて義経サミット開催!第一回義経サミットIN竜王(2004/04/23~24)

「義経ロマンと観光・地域振興・まちづくり」

義経元服いわれの地、滋賀県竜王町において、2004年に源義経にゆかりの9市町が全国から相集い全国で初めて「義経サミット」を開催しました。
平成17年放送のNHK大河ドラマに「義経」が決まり、この放映を契機に義経にまつわる伝説や物語がある全国の地域が一同に会して、義経による観光、地域振興ならびに地域の活性化を目指し共に義経を敬愛し交流を図り全国に発信することを誓い合いました。

第一回義経サミットIN竜王→

 

第8回JR京都駅ビル大階段駆け上がり大会で滋賀県竜王町「義経元服チーム」みごと優勝!(2005/02/19)

171段の大階段を力走

KBS京都主催「第8回JR京都駅ビル大階段駆け上がり大会」に義経ゆかりの地としてPRするため、竜王町から「義経元服チーム」が参加し、エキシビジョンレースでみごと優勝しました!

第8回JR京都駅ビル大階段駆け上がり大会で滋賀県竜王町「義経元服チーム」優勝!→

 

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