竜王の魅力

竜王の魅力

近江牛発祥の地「竜王町」

もともと牛は農耕用や運搬用に広く用いられていましたが、食用としての「近江牛」というブランドが全国的に広まったのは、江戸幕府が二百数十年にわたる鎖国政策を解いた幕末から明治にかけてと考えられています。
近江牛明治維新後、神戸の異人街で外国人が牛肉を求めていることを聞くと、神戸に牛を引いて行き食用肉を卸売したのが蒲生郡苗村(現在の竜王町山之上)出身の竹中久次という人物です。
竹中久次は東京にも生きた牛を引いて行き、当時食用牛肉は老廃牛の肉が用いられていましたが、久次が扱う新鮮な肉はよく売れ、たちまち江州牛(近江牛)の名は東京に知れ渡りました。
また、久次は肉の卸小売店と共に浅草で「米久」という「牛鍋屋」を開業し店を大繁盛させ、すき焼きのルーツと言える牛鍋を世に広めました。

近江牛発祥の地

近江牛の貢献者として知られるもう一人の人物として、西居庄蔵が挙げられます。
彼もまた、竜王町出身の偉人で近江牛の名声を確たるものにした功労者です。
西居は牛を歩いて引いて行くのではなく、当時としては画期的な船による海上輸送に目を付けました。
そして鉄道が開通されるや鉄道輸送でも牛を運び出しましたが明治23年朝鮮から疫病が侵入すると生牛の出荷が禁止、しかし禍転じて福となす、今度は滋賀県内で牛を屠殺し近江八幡駅から枝肉で東京へ輸送し滋賀県産の新鮮な牛肉「近江牛」を出荷することに成功したのであります。
この進取の気性に富む竜王町出身の2人の偉人によって「近江牛」は生まれ、今現在も、その精神を引き継いで、竜王町の豊かな自然が育んだよいワラときれいな水で良質の近江牛が育てられています。

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近代弓道発祥の地「竜王町」

滋賀県竜王町から全国に広がった日置吉田流弓術

近代弓道発祥の地

吉田流 日置流弓術の開祖・吉田出雲守重賢他
日本の弓道史において重要な人物を多く輩出し、近代弓術確立の場となった竜王町。
弓馬の武功に名高い一族、川守城(野寺城)(現在の滋賀県竜王町川守)の城主であった吉田氏の第11代目当主・吉田出雲守重賢(将軍足利義晴弓術指南役)は幼少期より逸見・武田・小笠原流などの古流弓術を学び弓の名手と謳われる人物でした。
室町中期までの弓術は、見た目や美しさを重んじる儀礼的な「古流」といわれる流儀が主流でしたが、より実践的な武士らしい弓術をあみだした重賢は、自分の上に日置弾正正次という架空の人物を創造し革新的な「日置吉田流」という現在「日置流」と呼ばれる流派を完成させたといわれております。

竜王と弓道 日置吉田流弓術

西川姓発祥の地「西川館遺跡」

竜王町にある西川地区は全国の「西川」という苗字の起源とされています。
古文書によると1600年前の大和時代(紀元400年くらい)、現在の滋賀県蒲生郡竜王町西川に位置する所に「西川館」が記されており西川氏という土着の豪族がこの地を治めていたという歴史があります。
応仁の乱(1467年)の時代には西川備前守という人物がいて「近江蒲生郡志」に「応仁乱日記に西川備前守あり佐々木氏の将たる云々」とあり、佐々木氏と関係があった西川氏が南北朝時代に既に存在していたことは間違いなく、近代まで西川氏代々の居館武家屋敷がこの西川にあり、殿様川という掘りは現在もその名残が見られます。
しかしながら現在、西川に西川姓は無く、西川館遺跡周辺に西田姓が見られることから西川の西川姓は西田姓に変換したと言われています。
江戸時代初期から活躍した老舗近江商人の西川甚五郎は、現西川産業創業家の歴代当主が襲名する名称で、ここ竜王町西川から全国に派生した西川姓の中でも最も有名な西川さんであります。
全国の西川姓の方々、是非竜王町にお越しいただきルーツを辿ってみられてはいかがでしょうか?

源義経元服の地「竜王町」

源氏の御曹司 源義経(幼名 牛若丸)が、京の鞍馬山から奥州平泉へ向かう途中で東山道の宿場「鏡の宿(かがみのしゅく)」現在の竜王町鏡に泊まり、この地の池の水で前髪を落として元服したと伝えられています。
今も竜王町には「元服池」や、元服の時に使った盥(たらい)の底、烏帽子を掛けたとされる「烏帽子掛松」などが残っております。
平治物語、謡曲「烏帽子折」(えぼしおり)などで有名。

義経元服ものがたり

義経元服の池 竜王町鏡

白洲正子ゆかりの地

白洲正子が魅せられた「近江・竜王」

雪野山

近江をこよなく愛し 度々近江の地を自らの足で訪ね数々の名作を世に送り出した白洲正子さん。

代表的な作品の『近江山河抄「あかねさす 紫野」』の章に登場する竜王の地をご紹介します。
竜王山と呼ばれる雪野山。
山頂には4世紀はじめの古墳があり、1989年に未盗掘で発見された出土品は国指定の重要文化財になっています。

雪野山の麓には、奈良時代に行基によって創建された雪野寺(現在の龍王寺)があります。
白洲さんは「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」という万葉集の相聞歌が詠まれた地が、この雪野山と雪野寺周辺だと『近江山河抄』の中で指摘しています。
雪野山と日野川に挟まれた狭隘な平地こそが貴重な薬草を保護した標野、すなわち蒲生野であると。

龍王寺
宝篋印塔

そこ[鏡神社]から南側へ渡った松林の中に有名な鏡山の宝篋印塔が建っている。
・・・ふくろうを彫った塔身・・・が、閑散とした赤松林の中に突然、現れたときはびっくりした。
このような石塔はお寺の中に建っているより、自然の中で見る方が美しい。
それもなるべくなら思いがけなく出会った方がいい。

-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

西光寺跡の宝篋印塔

「近江山河抄」には三ッ山古墳群(老々塚古墳)についても触れられています。

三ッ山古墳群

大海人皇子と額田王ロマンスの地

大海人皇子と額田王ロマンスの地

蒲生郡一帯の肥沃な平野は総じて蒲生野と呼ばれ、古くから人々に親しまれ愛されてきました。
この蒲生野を舞台にした“妹背”の物語や歌が数多く伝わっています。
なかでも有名はのは額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)との相聞歌ではないでしょうか。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(額田王)
紫草の にほえる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに われ恋ひめやも(大海人皇子)

大海人皇子と額田王の像これは668年5月5日、天智天皇ら一行が、蒲生野へ薬草狩りにでかけたとき、二人が酒宴の席で交わした歌です。

「あなたが人妻の私にそんなに袖を振って、野の番人はみとがめないでしょうか」という額田王に対して、
「美しいあなたのことをもし憎かったならば、人妻なのにどうして私が恋しく思うものか」と皇子は返しています。
こんな歌を大勢の前で詠み合うなんて、ちょっと考えられないような気がしますが、古代の恋はおおらかだったのでしょう。
大人同士の親しみと愛の語らいは一同から喝采を浴びました。
この歌には、座興的にうたい交わしたらしい口調の中に、かつて心を通わせ合った男女の愛が感じられる気がします。
だからこそこれほど長い間人々に謳われてきたのではないでしょうか。