ファミリーやカップルにお薦めエリア
小高い丘の上に、おれんじ色の屋根がそびえ立ち、四季折々の花が咲く公園は、空が青く澄みわたり、空気がおいしいみどり豊かな体験交流型農業公園。
ほほが落ちそうな、みずみずしい野菜や果物が収穫されています。
また、自然の恵みを受けてすくすく育った「近江牛」の本場。
いっぱい遊んで・いっぱい食べてファミリーやカップルにお薦めのスポットです。
いちご・さくらんぼ・ぶどう・なし・柿狩り・芋掘り等ができる果樹園をはじめ、農村田園資料館、動物ふれあい広場等があります。新鮮野菜・果樹や特産品の販売、近江牛のバーベキュー、焼きたてパンも好評で、「見る・採る・食べる」が楽しめる農業公園です。
もともと牛は農耕用や運搬用に広く用いられていましたが、食用としての「近江牛」というブランドが全国的に広まったのは、江戸幕府が二百数十年にわたる鎖国政策を解いた幕末から明治にかけてと考えられています。
近江牛明治維新後、神戸の異人街で外国人が牛肉を求めていることを聞くと、神戸に牛を引いて行き食用肉を卸売したのが蒲生郡苗村(現在の竜王町山之上)出身の竹中久次という人物です。
竹中久次は東京にも生きた牛を引いて行き、当時食用牛肉は老廃牛の肉が用いられていましたが、久次が扱う新鮮な肉はよく売れ、たちまち江州牛(近江牛)の名は東京に知れ渡りました。
また、久次は肉の卸小売店と共に浅草で「米久」という「牛鍋屋」を開業し店を大繁盛させ、すき焼きのルーツと言える牛鍋を世に広めました。
近江牛の貢献者として知られるもう一人の人物として、西居庄蔵が挙げられます。彼もまた、竜王町出身の偉人で近江牛の名声を確たるものにした功労者です。西居は牛を歩いて引いて行くのではなく、当時としては画期的な船による海上輸送に目を付けました。
そして鉄道が開通されるや鉄道輸送でも牛を運び出しましたが明治23年朝鮮から疫病が侵入すると生牛の出荷が禁止、しかし禍転じて福となす、今度は滋賀県内で牛を屠殺し近江八幡駅から枝肉で東京へ輸送し滋賀県産の新鮮な牛肉「近江牛」を出荷することに成功したのであります。
この進取の気性に富む竜王町出身の2人の偉人によって「近江牛」は生まれ、今現在も、その精神を引き継いで、竜王町の豊かな自然が育んだよいワラときれいな水で良質の近江牛が育てられています。
丘陵地より一望する緑豊かな田園風景と遠く琵琶湖をへだてた比良連峰の眺望は秀景です。
炭酸水素塩の弱アルカリ性の温泉です。神経痛や筋肉痛、冷え性や痛風などに効果があります。
露天風呂やサウナ、浴室を完備した2階建て(約840㎡)で、休憩所やお食事処もあります。
天歴元年(947年)の創紀。この地に所在した法満寺の四至封彊五ヶ所の鎮守神として祭祀されています。
毎年5月3日に東近江市宮川の八坂神社と組み合って、「ケンケト祭り(薙刀踊り)」が奉納されます。
ケンケト祭り 毎年5月3日
近江牛を販売。地元民に愛され人気。
法事や宴会御用達。近江牛や地元食材をふんだんに使った会席料理。
古墳の形は、造り出しと呼ばれる前方部の短い帆立の貝をしており、墳丘の全長は約82mです。
築造年代は、五世紀半ごろと考えられ、県内の帆立貝形古墳の中でも、上位にランクされる規模です。